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January 06, 2005

塚本晋也監督

で、ヴィタール。いきなりですが。(笑)
昨日観たこの映画、映画館を出てから次の予定のために
無理やり追いやった感じだった。
部屋のすべての窓を全開にして、ガンガン扇風機でもかけて空気を入れ替えるみたいに。
いつも、いい映画を観たあとには、それが抜けきるまでに時間がかかる。

塚本晋也監督の作品を初めて観たのは、学生のころだったから10年ほど前のこと。
美大で出席番号順に並んで授業受けてたら、私の前に座ってたTというコがいて。
そのコは、上京して何にもわからない私を色んなとこに連れてってくれたし、
色んなものを見せてくれた。
いま思えば、ホント垢抜けてないっていうか垢まみれだった私のどこを、
彼女が好んでくれていたのか不思議でしょうがないけど。
精神的に不安定なところがあるコだったから、
私は初めてみる生き物のように間近で彼女を観察し、
その不安定さが全面に出ている時には、
恐々ながらも母親のように接していたように思う。

そして、そのTが面白いよと見せてくれたのが、鉄男だった。
ものすごい衝撃だった。金属と、肉体と。
なんだよこの男、と思った。なに考えて生きてんだ、と。
衝撃を受けながらも、それらが私の奥底で嗜好しているものだと、
卵の殻の外側から黄身をつついたような感触だった。
そのあと、鉄男Ⅱも勿論観たし、彼の昔の作品も貪るように観た。
それから、他の監督の色んな映画
(いわゆるアンダーグラウンドでマニアックだと分類されるような)も、
沢山観たけれど、あのころ観た映画の中で衝撃を受け、
いまでも映像がはっきりとアタマの中で再生できるような映画は、
塚本監督の作品たちと、ブニュエルのアンダルシアの犬くらいなものだった。

そのあと社会に出てから、いくつかの職業を経験したり色んな状況にあっても、
必ず彼の作品とは“巡りあった”、と私は思い込んでいる。
すんごいすんごい好きでも、彼の活動をマメにチェックしていた訳ではなく。
それなのに、何気なくひらいた雑誌のページに、
塚本監督の新しい作品の記事がちいさく載っていたり、
すれ違った人々が彼の新しい作品に関して話しているのを耳にしたりして、
きちんと映画館で、ひとりで、(本当に観たい映画はひとりで観るにかぎる)
彼の作品はすべて観た。
今回のヴィタールに至っても、なんとなく気になってネット検索してみたら、
新しい作品が公開間近だった。
私は、彼の作品に呼ばれているとすら思う。
いや、思い込んでいる。

塚本監督の作品には、都市と肉体と死がかならずある。
ごくあたりまえの日常と、日常のなかにさりげなく潜む狂気も。
しん、とつめたく冷えきっていたり、
どろりとしていて、好まない人々にはグロテスクだと評されるようなものまでも。

ボクサーである実弟をつかった「東京フィスト」も、
自身が“オヤジ狩り”に遭ってつくった「バレット・バレエ」も、
はじめて古典に挑んだ「双生児」も、
都市においてきぼりをくらったエロスを描いた「六月の蛇」も、
すべて私はひとりで、映画館で観ていた。
彼の作品、それをつくりだす彼の脳のなかをすべて理解したいと思って。
なにが私をそうさせるのかは、はっきりとわからない。
でも、そこには必ず、肉体が生々しく存在している。
そして、彼の作品を観るときに私は、口唇期にもどってしまう。
どうしてか、観入っていると無意識のうちに指で口元や唇をいじりまわしてしまうのだ。
本能が、求めているのか。

息づかいや嗚咽、たまによく聞き取れないような科白まわしもある。
声を荒げて、何かに向かってゆくときもある。暴力的である場合も。
それらは、湿度を含んでいて“生きている”肉体を感じさせるものだ。

ヴィタールは、“死んでいる”肉体を主題としている。
今まで都市からマクロ的にみていた肉体を切り開き、
ミクロ的にみているというか。
都市というフィルターは除かれており、
彼の作品を観追ってきた人々なら驚くはずの南国(沖縄)が出てきたりする。
外側から肉体を突き詰めていったら、
どんどん肉体の中に入り込んでいったのか?と思っていたら、
実は「鉄男」を撮っていた頃から解剖学には非常に興味があったらしい。
彼の中で、この作品をつくる時期が来た、ということなのかもしれない。

交通事故で記憶を失った主人公の博史(浅野忠信)が、
かつての恋人であった涼子を解剖してゆくストーリーなのだが、
解剖しながら記憶が蘇ってゆき、更にそれを上回る世界をも、彼は生きる。
どっちの世界が本物?って優越つけないでよ、という科白があったな、確か。
いま目の前で内臓や筋肉や骨をあらわにしているのは、
あの時一緒にいた涼子なのだとわかってきてからの博史の、
解剖してゆくさまは、SEXだなんて比べものにならないくらい。
ひとつひとつの部位を丹念に観察してゆき、
ダヴィンチさながらの筆圧の濃いデッサンでのこしてゆく。
彼女への愛情を示すような、わかりやすい“現実”でのそぶりはないのだが、
脳までも観察し尽くしたあとに、彼女の肉体を復元し棺桶に納めるシーンで、
私は凄まじいまでの感情を感じた。
愛して、いたんだ。

肉体の隅々どころか、眼球の内容物までも見尽くしても、
じゃあ意識は?感情は?
どこにあるのかは、知ることが出来ない。
たまたま、いま読んでいる「脳と仮想」がリンクする気がした。
心と体があるから、人は存在している。

もしも私が、塚本監督の肉体を目の前にしたらやっぱり、
その脳を皺のひとつひとつまでも克明に観察したいと思ってしまうだろう。
でもそれで、塚本晋也という存在の中身までも突き詰めることまでは。
だからまたきっと、次なる彼の“中身”つまり作品を、
口唇期に戻る時間を、待ちわびることだろう。

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